「八丈織」とは、草木染めの絹織物のこと。八丈島で生産される黄八丈が最も有名で、八丈島から日本各地で生産されていった。秋田八丈もその流れをくむ。
江戸時代後期、秋田藩が殖産興業を推進する中、染色・機織の指導者として招いた蓼沼甚平(たてぬまじんぺい)が奥州伊達(現在の福島県)と上州桐生(群馬県)から織物技術を導入して、秋田八丈を推進していき、現在に至る。
秋田八丈は、黄八丈に比べると光沢度合いが少し低く、渋みがあるのが特徴。色は赤暗い茶褐色のとび、黄、黒の3色。とび色は秋田県内の日本海の浜辺に自生するハマナスの根に含まれる色素で、黄色は山に群生するイネ科のカリヤスや山ツツジの葉に由来する。使い込むほどにさらさらになっていくという手触りも特徴だ。
現在、秋田の土壌が産んだ草木の独特な色合いが奏でる絹織物を生み出すのは、奈良田登志子さん、ただ一人。
ひょんなことから秋田八丈と出会ってから40年。共に生きてきた秋田八丈と奈良田さんの軌跡を振り返りながら、美を生み出すための苦労、そしてやっと見つかった後継者のことなどを、奈良田さんは明るく語ってくれた。
秋田県の無形財産に指定された滑川機業場の社長から託された秋田八丈の伝統
ーー 作家インタビュー ーー
秋田八丈に関わってから、ご自分が引き継ぐまでのことをお聞かせください。
「私が生まれたのは北秋田市の鷹巣周辺で、父親は村長でした。6人兄弟の末っ子で、父親が病気になってしまったので進学せずに、鷹巣中学を卒業してから福井県の大和紡績に就職して、工場で糸を作っていました。やがて手に職をつけたいと調理師の免除を取りたかったのすが、でも色んな事情で板前になるのを断念して、秋田市内で知り合った方と結婚して、専業主婦になりました。しばらくは二人の子供の育児に専念していましたが、28.9歳頃に子供を保育所に預けて秋田市の滑川機業場に勤め始めました。そこが秋田八丈の工房でした」
それまで秋田八丈のことを知っていましたか。
「見たことも聞いたこともなかったです。職人の世界も初めてだったので、自分ができることは掃除や雑用ぐらいと思っていました。そのうち掃除がちゃんとできるという理由で認められて、先輩から機械を使って織り方を教えてもらうようになったのです」
秋田八丈の伝統の技法に改良を加えた滑川社長の八丈は、県の無形文化財にもなったそうですが、奈良田さんから見て、どのような方でしたか。
「昔ながらの職人気質があって、笑わない人でした。叱られるのは当たり前で、仕事ぶりをいつもチェックされているような厳しさがありました。
やめていく人が多い中、私が25年間、滑川に努めることができたのは、前職の紡績工場勤務のおかげかもしれません。織り方だけでなく染めを教えてもらったことが大きいですね。他の人たちは織りだけでしたから」
25年間務めた滑川機業場から独立することになりましが、どのような経緯だったのでしょう。
「滑川機業場が閉鎖したんです。高齢になった社長が会社を畳んだというか、廃業にした時に滑川機業場にあった機械を全部私に譲ってくれたんです。頼んでもらったわけではなくて、織機も糸巻きも全て私に譲るからと。
当時、私は53歳で、子育てが終わり、滑川もなくなるから仕事のことをもう考えなくてもいい、やったーと解放感でいっぱいでしたが、機械一式を譲るということは、社長が私に八丈を続けろという意味なのかと考えていた時に、4つ上の姉が『工房をやればいい』と土地を見つけてくれて、自然に後継者になりました。そこから滑川の続きが始まったということです」
続きと言っても、一国一城の主となったわけですね。
「先代の社長が、わからないことがあったら教えに行くからと言ってくれたのですが、病気で入院しまったので、私一人でと。これも自然の流れでしょう。譲った機械を夫と兄が組み立ててくれて設置すると、工房らしくなりました」
後継者にも恵まれ、秋田八丈の可能性が広がる
滑川の社長から教えてもらった染めは、秋田八丈の要といっていい工程ですね。
「まず糸を水につけますがとにかく重くて、重労働です。滑川の時は社長がやってくれましたから、楽でしたね。染めも大変で、まず天然の草木での染色は化学染料のように綺麗には染まらないんですね。気温によってもその風合いが変わるので、ムラなく染め上げるのは本当に難しいんですよ。やれるのは、長年の経験値のおかげでしょうか」
一色染め上げるのにかかる期間は約一週間だと聞いています。
「その間は工房に泊まり込みます。とび、黄、黒の3色が主要ですが、先代の社長に認めてもらえない色を染めたこともありました。ピンクや紫は、八丈らしくないと指摘されましたが、でも好きな色を作ってしまうんですね(笑)基本は崩さないけど、遊び心もありだと思っています」
伝統工芸家たちのほとんどが後継者問題で頭を抱えています。でも奈良田さんに後継者が現れたと聞いています。
「藤原健太郎さんという33歳の男性です。健太郎くんは盛岡市出身で、農業高校で植物を専攻して、研究者になることを夢見て薬学部に進み、32歳の頃に体調を崩してしまったそうです。自宅で静養していた時にインターネットで秋田八丈を見つけて、一目ぼれをしてくれたそうで。
進路を選ぶか、それとも好きなことをやるかという岐路に立たされると、好きなことをやろうと決めて、秋田八丈の一日体験に参加して、実際に秋田八丈を見てから、ますますやる気になったそうです。ありがたいですね。
二人で今までにない色合いでやろうということになって、健太郎くんは黒に茶のシマを折りたいと言っています」
凄い色合いですね!令和のダンディズムの象徴みたい。
「秋田八丈をネットで広めたり、海外の人が買ってみたいと思える商品を開発したいと言っています。若い人の柔らかい頭と感性がこれからの秋田八丈に必要ですね。私が楽になるように健太郎くんには頑張ってもらいたいです」
最後に、40年間続けられてきた秘訣を教えてください。
「40年間続けられたのは、毎日が昨日の続きだと思っていたからでしょう。妙に気負っていては、途方もない工程を長年続けるのは難しいです。だから明日も今日の続きをやっていくんですよ!」
(TEXT;夏目かをる)